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​これまでの研究成果

概要

本研究は、ハドロン質量の起源を実験的に解明するという、低エネルギー量子色力学(QCD)の中心課題を背景として着想された。陽子・中性子をはじめとするハドロンの質量の大部分は、構成クォークの質量そのものではなく、QCD真空におけるカイラル対称性の自発的破れと、それに伴う動的質量生成に由来すると理解されている。この機構を実験的に検証することは、強い相互作用が形成する真空構造の理解に直結する重要課題である。

 その有力な方法として、有限密度環境下におけるハドロン性質の変化、特に原子核媒質中でのベクトル中間子(ρ、ω、φ)の質量分布や崩壊幅の変化を観測する研究が国内外で進められてきた。しかし従来の不変質量スペクトル測定では、予想される媒質効果が数%程度と小さいことに加え、崩壊幅の増大、終状態相互作用、さらに多くの中間子が原子核外で崩壊してしまうことなどにより、核内で生じた変化を明確に抽出することは容易ではなかった。

 こうした状況のもと、本研究では従来とは異なる新たな観測量として、ω中間子の稀崩壊 ω→π⁰e⁺e⁻ に着目した。この崩壊で測定される電磁遷移形状因子は、中間状態としてρ中間子成分を強く反映し、核媒質中におけるベクトル相関関数の変化やカイラル対称性部分回復の影響に感度を持つことが理論的に示唆されていた。すなわち、従来の質量スペクトル測定とは異なる角度から、媒質中ハドロン構造へ迫る新しい実験手法として期待された。

 さらに、SPring-8/LEPS2では、原子核内部で崩壊しやすい低運動量ω中間子を選択的に生成できる高輝度エネルギー標識光子ビームが利用可能であり、大立体角・高分解能電磁カロリーメーターBGOeggによる高精度測定環境も整備されつつあった。学術的要請と実験的条件が揃ったことから、原子核中におけるω中間子遷移形状因子測定を通じて、ハドロン質量起源へ新たな実験的アプローチを与える研究課題として本研究を開始した。

研究目的

 本研究の目的は、原子核媒質中におけるω中間子の電磁遷移形状因子を高精度で測定し、その媒質中変化を通じて、有限密度環境下におけるベクトル相関関数の変化とハドロン質量生成機構の理解を深めることである。ハドロン質量の大部分は、量子色力学(QCD)真空におけるカイラル対称性の自発的破れに伴う動的質量生成に由来すると考えられており、この機構を有限密度系で実験的に検証することは、現代ハドロン物理学の重要課題である。

  ベクトル相関関数は、ρ・ω・φ などのベクトル中間子の質量分布、崩壊幅、スペクトル強度分布として観測される量であり、核媒質中ではこれらが変化すると期待されている。従来、この問題に対してはベクトル中間子の不変質量スペクトル測定が主な手法として用いられてきたが、核内崩壊成分の少なさ、崩壊幅の増大、終状態相互作用の影響により、媒質効果を明確に抽出することは容易ではなかった。

  そこで本研究では、ω中間子の稀崩壊 ω→π⁰e⁺e⁻ に着目し、電子・陽電子対の不変質量分布から得られる電磁遷移形状因子を新たな観測量として用いる。この量は中間状態としてρ中間子成分を強く反映し、核媒質中におけるベクトル相関関数の変化に感度を持つため、従来の質量スペクトル測定を補完する独自の手法となる。

  本研究では、SPring-8/LEPS2 において低運動量ω中間子を選択的に生成し、BGOegg検出器群、前方カロリーメーター、高速化したデータ収集系を用いて、原子核内部で崩壊したω中間子事象を高統計で取得する。さらに、機械学習を導入した粒子識別技術により希少崩壊事象の抽出感度を大幅に向上させ、銅・ニオブなど複数標的の比較から、媒質効果の原子核依存性・密度依存性を系統的に調べる。

  これにより、有限密度QCDにおけるカイラル対称性部分回復、ベクトル中間子の媒質中変化、ならびにハドロン質量起源に対して新たな実験的制約を与え、有限密度ハドロン物理の理解を前進させることを目的とする。

研究の方法

 本研究では、SPring-8/LEPS2ビームラインにおいて、高輝度・エネルギー標識化光子ビームを炭素、銅、ニオブなどの原子核標的に照射し、光核反応によって生成されるω中間子を用いて測定を行った。特に、前方へ放出される陽子を伴う反応事象を選別することで、実験室系で低運動量のω中間子を効率よく生成し、原子核内部で崩壊する事象の割合を高めた。これにより、媒質効果を受けたω中間子崩壊成分に対する感度向上を図った。

  観測対象は、ω中間子の稀崩壊過程 ω→π⁰e⁺e⁻ である。終状態として放出される電子・陽電子、およびπ⁰崩壊から生じる2本のγ線を、大立体角電磁カロリーメーターBGOeggならびに前方カロリーメーターを用いて検出した。取得した各粒子のエネルギー・運動量情報からω中間子候補事象を再構成し、電子・陽電子対の不変質量分布を求めることで、電磁遷移形状因子を抽出した。

  測定精度向上のため、データ収集系(DAQ)の高速化・安定化を進め、高レート条件下でも長時間連続運転が可能な測定体制を構築した。また、主要背景事象であるハドロン反応やπ中間子誤同定を抑制するため、電磁シャワー形状、飛行時間情報、エネルギー損失情報などを入力とした機械学習型粒子識別手法を導入した。これにより、電子・陽電子事象の選別性能を大幅に改善し、希少崩壊事象の抽出感度を向上させた。

  解析では、異なる原子核標的で得られた結果を比較し、標的質量数や平均核密度に対する形状因子変化の系統性を調べた。さらに、ω中間子運動量依存性を解析することで、核内崩壊成分と核外崩壊成分を統計的に切り分け、媒質効果の寄与を定量化した。

 得られた実験結果は、有限密度環境下におけるベクトル相関関数、ρ・ω中間子のスペクトル変化、カイラル対称性部分回復に関する理論計算と比較し、その物理的意味を検証した。これにより、実験と理論の両面から有限密度QCDの理解深化を目指した。

研究成果

研究期間全体を通じて、本研究では、原子核媒質中におけるω中間子電磁遷移形状因子測定の実現に向け、(1) 実験基盤の高度化、(2) 当初目標統計量を満たす大規模データ取得、(3) 希少崩壊解析に必要な高感度解析技術の確立、という三つの重要成果を達成した。これにより、研究開始時には実現可能性の検証段階にあった課題を、実際に物理解析を遂行できる段階まで前進させた。

  まず、SPring-8/LEPS2-BGOegg実験装置を基盤として、希少崩壊事象測定に必要な検出器性能向上とデータ収集系(DAQ)の高度化を進めた。高レート条件下で安定動作する読み出し系への更新、高速化した収集システムの導入、解析環境の再構築を行い、長時間連続運転と大統計測定を可能とする実験体制を確立した。加えて、低運動量ω中間子生成条件、原子核内崩壊確率、背景事象混入率に関するシミュレーションを実施し、本研究手法の妥当性と到達感度を定量的に確認した。

  次に、BGOegg前方領域の検出能力強化を目的として、前方カロリーメーター(Forward Calorimeter)を新たに整備・導入した。これにより、0度近傍へ放出される中性粒子・光子に対する受容率とエネルギー分解能が向上し、ω生成反応の事象選別能力が大幅に改善された。特に、原子核内部で崩壊しやすい低運動量ω中間子を効率よく選別できる測定環境が整い、本研究の核心である媒質効果探索の実験基盤を確立した。

  これらの高度化を基盤として、銅(Cu)およびニオブ(Nb)などの原子核標的を用いた本格的データ取得を実施し、研究期間全体で累積10^9事象を超える解析対象データを取得した。これは当初計画で必要と見積もっていた統計量を達成する成果であり、ω→π⁰e⁺e⁻ 稀崩壊探索および遷移形状因子解析に必要なデータ基盤を構築したことを意味する。さらに、当初計画には含まれていなかったニオブ標的測定も実施し、媒質効果の有無に加えて、その原子核依存性・密度依存性を検証する新たな研究展開を可能とした。

  解析面では、深層学習を用いた粒子識別手法を新たに開発した。電磁カロリーメーター応答、飛行時間情報、イベントトポロジー等を統合的に学習させることで、電子・陽電子信号とハドロン背景の識別性能を大幅に改善し、信号抽出感度(S/N換算)を約100倍向上させた。これは本研究の成否を左右する背景抑制能力を飛躍的に高めた成果であり、希少事象探索全般にも応用可能な解析技術である。

  また、理論研究者との連携を継続的に進め、有限密度環境下におけるベクトル相関関数、媒質中ρ・ω中間子スペクトル変化、カイラル対称性部分回復に関する理論的検討を深化させた。これにより、取得データを有限密度QCDおよびハドロン質量起源の問題へ接続する解釈基盤を整備した。研究成果は、国際会議HYP2025をはじめ複数の国際研究集会で報告し、国内外研究者との議論を通じて本研究課題の国際的認知度向上と関連分野との連携強化を進めた。

 研究目的の達成に不可欠な装置整備、必要統計量の取得、解析基盤の確立は計画期間内に完了した。一方、取得データ量が当初想定を上回り、より高精度な解析が可能となったこと、ならびに高感度解析手法の高度化を進めたことから、最終的な物理結論の導出には追加解析期間を要している。現在、取得済み高統計データを用いた最終解析を継続しており、有限密度QCDにおけるベクトル相関関数の変化、ならびにハドロン質量起源に関する新たな実験的知見の提示が目前にある。

​成果報告等

  1. H. Ohnishi, "Electromagnetic transition form factor of the ω meson in nuclei" oral presentation.
    The 15th International Conference on Hypernuclear and Strange Particle Physics (HYP2025),
    September 29 -- October 3, 2025, Hongo-Campus, The University of Tokyo, Tokyo, Japan 

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